鮮やかな色の紙から、植物や人、星のような形をはさみで切り出していく――。アンリ・マティスの晩年を代表する「切り紙絵(cut-outs)」は、20世紀美術を代表する作品群のひとつです。その制作が大きく発展したのは、マティスが70代になり、大きな病気と手術を経験した後のことでした。
1941年、71歳だったマティスは、がんのため2度の大きな手術を受けました。手術は彼の命を救いましたが、その後は身体の自由が大きく制限され、それまでと同じように制作することが難しくなります。それまでと同じように制作することが難しくなりますが、マティスの制作はそこで終わりませんでした。
ベッドや椅子の上でもできる制作へ
実はマティスは、病気になる以前の1930年代から、絵画の構図を考えるために切った紙を使っていました。そのため、「手術を受けたことで突然、切り紙を発明した」というわけではありません。しかし、1941年の手術後、その方法がマティスの制作の中で大きな意味を持つようになります。
助手がガッシュで色を塗った紙を用意し、マティスがはさみで形を切り出す。切り取られた紙は壁などにピンで留められ、マティスが位置を指示しながら構成していきました。ベッドや肘掛け椅子に座った状態でも続けられるこの方法は、やがて単なる絵画のための補助的な手段ではなく、それ自体がひとつの表現へと発展していきます。



出典:Wikimedia Commons
「はさみで描く」
1943年、手術から2年後、マティスは切り紙を使った作品集『Jazz』の制作を始めます。サーカス、旅、神話などを思わせる形が、青、赤、黄色、緑といった鮮やかな色で画面を動き回ります。マティスは、色を塗った紙をはさみで切るこの方法を「はさみで描く」ことになぞらえました。
その後、切り紙はさらに大きくなっていきます。最初は手元で扱えるほどだった作品が、やがて壁いっぱい、部屋いっぱいに広がるほどの大きさになりました。1952年の《スイミング・プール》では、自宅のダイニングルームの壁をぐるりと囲むように、泳ぐ人や水の生き物を青い紙から切り出しました。
身体を自由に動かすことが難しくなった一方で、作品の世界はむしろ部屋全体へと広がっていったのです。
「以前と同じようにできない」から生まれたもの
マティスの話を、「病気を乗り越えて以前のように絵を描けるようになった」という物語にすることはできません。以前と同じ身体に戻ったわけでも、以前とまったく同じ制作方法に戻ったわけでもありません。
以前とは変わった身体で、どうすれば制作を続けられるのか。その中で、以前から使っていた切り紙という方法が大きく育っていきました。晩年の約10年間にマティスが制作した切り紙作品は、およそ270点。現在では、それらはマティス晩年の代表的な作品として世界各地の美術館に収蔵されています。
できなくなったことがあったから、それを単に取り戻すのではなく、別の方法を見つける。その方法が、結果として彼の長い画業の最後に、まったく新しい表現を生み出しました。
手術から13年、84歳まで制作を続けた
マティスが大きな手術を受けたのは1941年。亡くなったのは1954年、84歳でした。その間には『Jazz』だけでなく、ヴァンスのロザリオ礼拝堂、《スイミング・プール》など、現在もマティス晩年の重要な仕事として知られる作品が生まれています。
71歳で大きな手術を受けたあとにも、マティスには13年の時間がありました。その13年は、病気になる前の生活へ戻るためだけの時間ではありませんでした。身体の条件が変わったあとに、自分にできる方法を探し、その方法を新しい表現へと育てていった時間でもありました。
がんになったあとに待っているのは、「以前と同じ自分に戻れるかどうか」だけではありません。マティスの晩年を見ると、身体や暮らしが変わったあとにも、それまでとは違う方法で始まる時間があることが分かります。
それがどんな形になるのかは、人によって違います。マティスの場合、それは一枚の色紙とはさみから始まりました。
参考資料
- The Metropolitan Museum of Art「Henri Matisse – Snow Flowers」
1941年の2度の手術後の身体状況、切り紙制作への移行、晩年約10年間で約270点を制作したことなど。 - The Museum of Modern Art (MoMA)「Henri Matisse: The Cut-Outs」
マティス晩年の切り紙作品と、その表現の発展について。 - MoMA「The Swimming Pool」
1952年制作の《The Swimming Pool》について。自宅のダイニングルームを囲むように制作された作品の詳細。 - Musée Matisse Nice
マティス晩年の活動や作品を所蔵・紹介する公式美術館。







