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「cancer(カニ)」という名前はどこから来た? 古代ギリシャから日本語の「がん」までの言葉の旅

「cancer(カニ)」という名前はどこから来た? 古代ギリシャから日本語の「がん」までの言葉の旅

英語で「がん」を意味する cancer。実はこの言葉、もともとの意味は「カニ」です。星座のかに座も英語では Cancer。病気のがんと、空に浮かぶカニが、同じ名前を持っています。

なぜ、がんが「カニ」なのでしょうか。「腫瘍から伸びる血管がカニの脚に見えたから」という説明を聞いたことがあるかもしれません。でも、この名前の歴史をたどってみると、それだけではありません。古代の医師たちは、カニの姿だけでなく、その攻撃性や、爪でつかんで離さない性質まで病気と重ね合わせていました。

そして、この「カニ」という名前は2000年以上も消えることなく、ギリシャ語からラテン語へ、さらに英語へと受け継がれていきます。一方、日本語の「癌」には、それとは別の歴史があります。

古代ギリシャで、腫瘍が「カニ」と呼ばれた

話は古代ギリシャまでさかのぼります。
紀元前5〜4世紀ごろのヒポクラテス医学文書には、ある種の腫瘍を表す言葉として karkinos や karkinoma が登場します。karkinos は古代ギリシャ語で「カニ」を意味する言葉です。現在も使われる carcinoma(癌腫)という医学用語には、この古い言葉の名残があります。

ただし、ここでいう karkinos を、そのまま現在の「がん」と考えることはできません。古代には顕微鏡も病理診断もなく、良性と悪性の腫瘍を現在のように区別することもできませんでした。当時 karkinos と呼ばれた病変の中には、現代なら別の病気と診断されるものも含まれていたと考えられています。

つまり「ヒポクラテスが現代のがんに karkinos と命名した」というより、古代の医師たちが観察していた腫瘍の一部を、カニを意味する言葉で呼んでいた、と考えた方が実際に近そうです。

なぜ「カニ」だった? 古代にも複数の説があった

では、どうしてカニだったのでしょう。
現在よく紹介されるのが、腫瘍のまわりに広がった血管をカニの脚に見立てたという説明です。ところが古代から伝わる説明を調べてみると、カニとの共通点はそれだけではありません。

7世紀にアレクサンドリアで医学を教えていたステファノスは、二つの説明を紹介しています。一つは、病変の周囲にある静脈がカニの脚のように見えるから。もう一つは、病気の性質がカニのように攻撃的だから、というものです。

同じ7世紀の医学者アイギナのパウロスは、さらに別の説も記しています。病変が体の一部をしつこく捉えて離さない様子が、カニが爪でつかんで離さない姿に似ている、という考え方です。

「カニの脚に似ていたから」という有名な説明は、確かに古くから存在します。でも、それだけが唯一の由来として伝えられてきたわけではありません。
見た目がカニに似ている。攻撃的である。そして、つかんだら離さない。
古代の人々は、病変を観察しながら、カニという生き物のさまざまな特徴を重ね合わせていたようです。

ギリシャ語の「カニ」が、ラテン語の cancer になった

古代ギリシャ医学は、その後ローマ世界へ受け継がれていきます。
そこで karkinos に対応する言葉として使われたのが、ラテン語の cancer でした。意味はやはり「カニ」です。つまり、カニという比喩を捨てて新しい医学用語を作ったのではなく、ギリシャ語の「カニ」をラテン語の「カニ」に置き換えたわけです。

この言葉はその後も医学の中に残り続けました。古代ローマの医学者ガレノスも腫瘍について論じていますが、当時の腫瘍分類は現在とはかなり違います。古代に「cancer」に相当するものとして理解された病気と、現代医学で診断される「cancer」が完全に一致するわけではありません。

それでも病名そのものは生き残りました。
ギリシャ語の karkinos からラテン語の cancer へ。病気についての医学的な理解は大きく変わっていくのに、「カニ」という名前だけは残っていきます。

英語では cancer と canker に分かれていった

英語の歴史をたどると、もう一つ面白い言葉が登場します。
canker です。

現在の英語では cancer と canker は別の言葉ですが、もともとは同じラテン語 cancer につながっています。中世から近世の英語では、cancer、canker、kanker、chancre など、よく似た言葉が腫瘍や潰瘍などを表すために使われていました。
しかも、その使い分けは現在ほど明確ではありませんでした。canker が現在でいう悪性腫瘍を指すこともあれば、口内炎や別の潰瘍のような病変に使われることもありました。

16〜17世紀ごろの医学書には、腫瘍とそこから伸びる血管をカニの胴体と脚に重ねたり、病変が体にしがみつく様子をカニになぞらえたりする説明が繰り返し登場します。「カニ」という比喩は単なる語源として残っただけではなく、医師たちが病気を理解するイメージとしても長く生き続けていました。
やがて cancer が医学用語として定着し、canker とは意味が分かれていきます。現在の英語の cancer へつながる言葉の形が整っていったのです。

日本語の「癌」は、カニとは別の道を歩いてきた

ここで日本へ目を移すと、まったく違うものが登場します。
「癌」という漢字です。

「癌」は西洋医学を翻訳するために日本で新しく作られた漢字だと思われることがありますが、この字はそれよりずっと古く、中国の宋代の医学書ですでに使われています。南宋の1264年の医学書『仁斎直指方』にも「癌」の字と病変についての記述があります。

ただし、これも注意が必要です。当時「癌」と呼ばれた病変と、現在の病理学でいう「がん」が完全に同じだったとは限りません。「癌」の字だけが1000年近く前から現在と同じ意味で使われ続けてきた、と考えるのは単純すぎます。

日本でも「癌」は意外に早く登場します。『日本国語大辞典』が挙げる日本での用例には、1666年の医学書『合類医学入門』があります。また、近世には乳房の病変について「乳岩」「乳巖」など、「岩」を使った表記も見られました。

西洋の cancer が「カニ」だったのに対して、東アジアでは「岩」のような硬さや形を思わせる言葉が病変を表すために使われていたのです。

「カニ」と「岩」が、同じ病気を指すようになった

こうして比べてみると、英語の cancer と日本語の「癌」は、最初から同じ言葉を翻訳した関係ではありません。
西洋では、古代ギリシャの karkinos――カニ。
東アジアでは、「癌」「岩」「巖」など――岩のような硬い病変を思わせる言葉。

それぞれ別の医学文化の中で生まれた言葉が、近代医学が広がる中で、同じ病気を指す言葉として対応するようになりました。

現在の日本では「癌」だけでなく、ひらがなの「がん」も広く使われています。また医学的には、「癌(癌腫)」を上皮細胞から生じる悪性腫瘍という狭い意味で使い、「がん」を肉腫や血液のがんなども含めた悪性腫瘍全体を指す言葉として使い分けることもあります。

普段何気なく使っている「がん」という二文字の向こうには、実は二つの長い言葉の歴史があります。
一方には、病変をカニに重ね合わせた古代ギリシャの医師たち。
もう一方には、硬く盛り上がった病変を岩に重ね合わせた東アジアの医師たち。

顕微鏡もCTもなかった時代、人々は自分の目と手で病気を観察し、身近なものにたとえながら名前をつけました。医学が大きく変わった今も、その古い観察の痕跡は、cancer と「がん」という言葉の中に残っています。

キャンエビのまとめ

  • 英語の cancer のルーツは、古代ギリシャ語で「カニ」を意味する karkinos
  • 「カニ」と呼ばれた理由には、血管が脚のように見える、攻撃的、つかんで離さないなど複数の説明が古くからあった
  • karkinos はラテン語の cancer へ受け継がれ、英語の cancer につながった
  • 英語の canker も同じ語源を持ち、かつては cancer と意味が重なる部分があった
  • 「癌」は日本で新しく作られた字ではなく、中国・宋代の医学書までさかのぼる
  • 西洋の「カニ」と東アジアの「岩」という別々の言葉の歴史が、現在では同じ病気を表している
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